支倉常長 子孫は何故スペイン?仙台からローマを航海した船の名は…
2022/05/14
6/9(土)の世界ふしぎ発見では、あの伊達政宗が取り上げられるようなのですが、伊達政宗と言えば、独眼竜の政宗として歴史上では欠かせない人物ですよね。
豊臣や徳川との繋がりも多く、また当時の時代ではかなり長寿だったと記憶していますね、70歳ぐらいまで生きながらえたと覚えていますが、他にも、大人の炭酸にはめっきり弱く、酩酊したり、失敗談も多かったと言う方でしたよね。
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そんな伊達家の家臣としても仕え、ヨーロッパへの懸け橋ともなった支倉常長について、今日は取り上げて行きたいと思うのですが、あまりご存知ない方もいるかと思いますが、ヨーロッパで伊達政宗の名前が売れているのは、支倉常長のおかげだと言っても過言ではないでしょう。
そんな伊達家のキーマンでもあった支倉常長の子孫がヨーロッパ、スペインにいるとの話や、当時仙台からローマまでを航海して渡ったそうなのですが、その辺りについて調べて見ました!
支倉常長 子孫はスペイン?何故なのか…
支倉常長さんの子孫はスペインにいるという話があるようですが、これは、支倉常長さんを含む、慶長遣欧使節団が、ヨーロッパへ渡り、スペインとの通商交渉などをしていたわけですが、このときに慶長遣欧使節団の中には、支倉常長を含む、日本人が多くいました。
ようするに、その日本人の子孫などが現地におり、その中にいるのではないかという、昔にはありそうな説です(笑)のちほどその理由は書かせていただきます。
支倉常長は副使として、スペインに渡ったわけですが、実はこのスペインへの通商交渉というのは、あくまで表向きな話で、実は当時倒幕を考えていたのではないかと言う説もあります。
当時、徳川は海外諸国に対して、ご存知の通り開国姿勢ではありませんでしたからね。
さて、ではなぜスペインに子孫?と言われているかというと、日本人がスペインへの渡航した記録と、スペインから日本への帰路についた日本人の人数が文献で異なることや、スペインでは日本性である、ハポンという性が残っているのです。
ですから、支倉常長の子孫であると言われ続けていますが、本当の子孫はスペインにはいないことがわかっていますので、その辺りは次に書かせていただきます。
支倉常長の子孫は今どこに…
アジア人としては唯一無二の、ローマ貴族である支倉常長ですが、スペインには子孫はいないようなのですが、どうも日本にその名を残しているようです。
当時、、支倉常長の子孫は、やはりキリシタンへの反抗勢力に屈し、当時その名が途絶えそうになったようなのですが、その後挽回し復興を果たされます。
その後、明治と激動の時代を生き抜き、支倉常隆さんと言う方が、現在でも名を継いでおり、その名前は絶えていないということでしたね。
現在では仙台市に移り住んでいるということですよ!
支倉常長 仙台からローマへはどのように航海したのか?
支倉常長は、仙台からローマへと航海をしたということですが、今なら飛行機乗継でいけるローマに、どのような航海のルートで向かったのでしょうかね。
ただ、元々メキシコとの貿易を目的ともしておりましたので、恐らくメキシコ経由のローマというルートが正しいでしょうね。
航海のルートを見ると、まずは日本かメンドシノ岬、これはアメリカをめざし航海し、その後メキシコへ南下、その後バミューダ―海域を横目に、マドリードへ渡り、ローマへたどり着いています。
1613年の10月28日に日本を出発、そしてローマへは1615年の10月25日に着ということですから、2年がかりで航海したということですね。
当時の外交は、常に命がけだったということがうかがい知れますね、そんな支倉常長たちの航海を支えたのがサンファンバウテゥスタ号という船であり、現在でも復元されたものを見ることができるようです。
但し、震災の影響もあってか、東京オリンピックの2020年以降は、解体される可能性もあるとのことで、早めに見に行っておかなければなりませんね(笑)
今回の世界ふしぎ発見では、もしかすると子孫のお顔も拝見できるかもしれませんし、見逃せませんね!